-
1:紀州のほたる
:
2024/12/16 (Mon) 16:56:42
-
https://bbs3.fc2.com//bbs/img/_859900/859819/full/859819_1734335803.jpg
先日、1泊で九州は佐賀県へ。
これまでに佐賀県に立ち寄ったことがなかったこともあり、吉野ヶ里遺跡と名護屋城跡をじっくり巡りました。
吉野ヶ里遺跡では、歴史公園の中にある吉野ヶ里遺跡展示室、北墳丘墓保存館の展示は分かりやすく、担当者からも疑問点を説明していただくことができました。
吉野ヶ里遺跡は 幸運にも、バブルは弾けた頃に注目されはじめたことで、遺跡がそのまま残っているとのこと。
名護屋城跡では、まず 名護屋城博物館に入る。復元模型などがあり、当時の様子がよく分かる。
一方、この博物館の展示は客観的に説明されていますが、たとえ 日本に理解のある韓国からの訪問客であっても、朝鮮出兵の史実を落ち着いて見ていただけないであろう。
逆に、現地で秀吉軍に大打撃を与えた英雄「イ・スンシン」水軍がよく知られているが、その韓国ドラマ「不滅のイ・スンシン」が日本では受け入れられていません。
名護屋城は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出発拠点として築かれた城。周囲には、130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集まったといわれている。
城跡見学の際に、幸運にも現地ガイドさんにご同行いただくことができ(1時間弱)、案内・説明していただきました。
画像は、名護屋城跡の天守台から玄界灘方面を望んだもの。
手前に唐津市の大きな島(有人)が3つある。その向こうに壱岐の島も見えます。
この日は見づらかったのですが、条件がよければ 対馬もよく見えるそうです。
秀吉がここに拠点を築いた理由は、次の3つとのこと。
①対馬を経由して朝鮮まで近い。
②地元の波多氏の協力があった。
③リアス式海岸であるため船をつけやすい。
-
2:funabin
:
2024/12/17 (Tue) 16:08:12
-
歴史ものが好きだった私は、嘗て片道1.5時間の通勤電車の中で歴史小説を武者読みしたものです。
秀吉が、朝鮮出兵した時の拠点・名護屋城がどんな所にあったのか、勝手にイメージしたもですが、写真と書き込みを拝見して、良く分かりました(^^♪
佐賀には行った事が有りますが、唐津どまりでした。
-
3:紀州のほたる
:
2024/12/18 (Wed) 20:32:14
-
https://bbs3.fc2.com//bbs/img/_859900/859819/full/859819_1734521535.jpg
名護屋城跡の天守台から玄界灘方面を望んだスナップをもう一枚。画像真ん中の奥に、壱岐の島が見えます。
よい機会ですから、当時 なぜ秀吉は朝鮮を侵略したのか。その理由を知りたくなりました。調べたサイトの解説には、
「秀吉が東アジア征服構想を持った背景として、15~16世紀における東アジア世界の変動があげられる。それは朝貢貿易と海禁による明の冊封体制が緩み、倭寇の貿易が盛んとなったこと、さらに、ポルトガルをはじめとする南蛮諸国の貿易船が東アジアに進出し、明がおさえていた東アジアの通交関係を崩したことである。これにより、東アジアにおける明帝国の地位は低下した。明征服をめざした秀吉の朝鮮侵略はこのような時期に行われた。」
さらに、これまでに日本が朝鮮半島を侵略した経緯は、
①1592年から1598年にかけて、豊臣秀吉が明征服を目的として朝鮮に侵略した戦争が「文禄・慶長の役」。
②1894年に東学農民革命(甲午農民戦争)が起こり、日本は韓国政府から頼まれていないのに派兵して農民軍を弾圧。
③1906年から1911年には「反日義兵闘争」が韓国全土に広がり、日本軍は村々を焼き払い、義兵を大量に殺害した。
日本が朝鮮半島に進出した理由は、
○大陸進出の足掛かりとして朝鮮への影響力を強めたい。
○国の安全を守るために、隣国である朝鮮の安全確保が必要だと考えた。
○朝鮮半島の進んだ文化や鉄などの資源を欲しかった。
○日本資本主義の成長を支えるための食糧資源や労働力の供給地として位置づけた。
引用させていた解説の確かさはともかく、時代背景が違うとはいえ、深く考えさせられます。